日中も少しずつ暖かくなり、春を迎えた。4月初旬で大学も春休み。岬は日々バイトに明け暮れていた。
というよりかは、喫茶店で出してもらう珈琲を楽しみにしていた。
店主「岬さん。春休みはどこにも行かないのかい。毎日お店に来てくれているけどお休みするの遠慮していないかい」
岬「そんなことないです。私、ここに来ることがとても楽しみなんです」
店主「ありがとうね。・・・・・・・実はね。今度の土日お休みしようかと思って。
香住さんと1泊の旅行に行こうかと思って」
岬「どちらに行かれるんですか?」
店主「琵琶湖の近くにね。小さなホテルがあるのさ。そこは1日1組のみで、ホテルの前はすぐに琵琶湖でね。
静かで、朝は鳥の声で目が覚めて、夜になると虫の鳴き声が聞こえる素敵な場所で。
香住さんとの思い出の場所で時々心を休めに行くんだよ。」
香住「岬さん。ごめんなさいね。土日だけお休みになるけど。」
岬「全然・・・・・・。羨ましいです」
店主「旅行がかい?」
岬「旅行も素敵なんでしょうけど。奥様と2人で旅行なんて。それも思い出の場所なんて」
香住「岬さん。あなたもきっとそういう日が来るわ。私あなたのことが良く分かるの。」
岬「どうしてですか。」
香住「岬さんは、私に似てるの。なんていうかな。似てるのよ。ねぇ、正嗣さん」
店主「そうだなぁ。似てるなぁ。確かに」
岬には何がどう似ているのか全く分からなかった。
そして土曜日が来た。店主夫婦は予定通り琵琶湖のホテルへ旅行へ出かけた。
岬はというと部屋の中で朝から時間をもてあましていた。
そしておもむろにカメラを手に取ると外へ出た。
今は桜の時期であった。岬はあのしおりの桜の木を目指していた。
電車やバスを乗り継ぎ、6時間もかけてようやく辿りついた。
その桜の木はとても大きく、周囲の桜の木とは全と言っていいほど存在感が違っていた。
岬は桜の木の前でしばらく桜の木をぼーっと眺めていた。
そしてこの1年間のことを無意識に思い起こしていた。
3月に家を出て一人暮らしが始まったこと。渡君とのこと、剛君とのこと、バイトのこと、
指輪の男性のこと、お母さんのハンバーグのこと、ウェディングプランナーになろうと思ったきっかけの日のこと。
色んなことが、次から次に浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り消していた。
そして今日の自分が存在している価値、やるべきことを今一度考えてみた。
色んな人に出会って、いろんな感情になって、いろんなことを考えて。
自分の未熟さや弱さが一気に押し寄せてきたかと思った瞬間、岬は泣いていた。桜の木を見て泣いていた。
花びらが涙でかすんで見えたが、岬にとって必要な涙だった。
「自立した女性」とやるべきことを見つけなきゃというプレッシャーが本当は岬を小さく小さく押しつぶしていたのだ。
岬はそのプレッシャーに何とか打ち勝とうと毎日必死だったのだ。
喫茶店の夫婦はそんな岬を感じ取っていたのだ。だからこそ、自分たちが休みを取ることで、
岬への心の休暇を与えたのであった。
今から50年前の香住さんも同じであった。心が疲れているにも関わらず、
そのことに目を向けないように何かに没頭していたのだ。
香住さんは岬との会話の中で、何かをそう感じ取り、昔の自分と重ねたのであった。
「岬さんは、私に似てるの」はそのことであった。
岬は1時間ほど木を眺め、持参したカメラで写真を撮った。
それは木全体ではなく、散りゆく桜の花をメインにシャッターを切っていたのだ。
岬の心情の現われかもしれなかった。
しかし、桜の木を後にする時、岬は再度誓った。自分の夢を叶えるために、
自分に足りないことを慌てずにやり遂げていくこと。そして、諦めない強い気持ちを持ち続けることを再度誓った。
岬は最後に桜の木にお辞儀をし家に向かった。
夕方になるとまだ、冷える時期であり、人恋しい時期でもあった。
続く
By natsu